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1- 神辺城の歴史と戦国時代の神辺合戦

 

朝山氏は建武2年(1335)恩賞により守護職として、本当に神辺にきて築城したのでしょうか?

此の問いに対して、地元歴史家およびインターネット上では同じ内容表現で建武2年(1335)勲功によって神辺城初代の当主と書かれている。この件で、私が最初に疑問をもったのは 「元弘の乱」が起きた年(1333年)に何故その時、恩賞が2年後の建武2年(1335)なのか 常識であるなら その年のはずだが、4年前から私の頭の中では此の事がずーっとくすぶっていました。その時このホームページで書く勇気の持ち合わせがなかったのでしょうね。私自身も同じ様な書き方をしましたから。下記の表現はあくまで私個人の「新説」意見としてご覧下さい。

初期の築城場所は2ケ所の説有り  神辺街道の東端(古城跡)初期築城説・(黄葉山)後の本格的な城築城場所

 

「 建武の新制における恩賞の事実関係 恩賞方(おんしょうかた) 」

此の組織は建武新政権が武士の軍功を調査し、恩賞を与える為に設けた職名。此の元弘の乱後、武士の軍功調査業務等か停滞した為、翌年の建武元年(1334)年に鎌倉幕府の恩賞奉行にならって設置したものである。此の、恩賞方四番制度(地域を4ブロック分ける)は公家以下17名で構成された我が神辺は(3番制)にあたり(畿内・山陽道・山陰道)地方に番頭役として「万里小路藤房」を宛て業務に当たらせ纏め後醍醐天皇に示すが、認められず藤房は此の政権から逃れている。その他の頭人衆も離れ此の制度は崩壊している。此の後、後醍醐天皇は別組織 伝奏(てんそう)の合議体組織 伝奏衆をつくり恩賞業務を行うが、間もなく建武政府は事実上崩壊へと向かっている。翌建武6年(1336)室町幕府が成立している。従って初代神辺城城主と言われた朝山次郎左衛門景連の存在も無い事に成る。                              
(信憑性の薄い)と言われた、備後古城紀の原文は 朝山備前守「建武二(年)十一月廿六日城を築く」(此の一行のみである)此の元、文章が約昭和40年代の神辺町史に、軍功と守護職が加えられ、次の文章から形成されている。      
「官軍の武功ありて後醍醐天皇により建武二年(千三百三五) 奉勅命而為備後守護、同年十一月二十六日此の所に城を築き移住す」
此の文章がその後いろんな書、インターネットの世界で拡散されている。                      

「 神 辺 城 が 黄 葉 山 に 築 城 し た 時 代 説 」

(室町時代の 嘉吉3年(1443)に山名氏によって築かれたのが始まりと思われ、以前の城は古城にありました)

「 足 利 政 権 の樹 立 」

建武3年(1336)、京都を制圧した尊氏は、持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を立て後醍醐天皇に譲位をせまり、幕府を開く目的のもとに政治の当面の方針を明らかにした建武式目(けんむしきもく)を発布した。こうして建武の新政はわずか3年で崩壊した。暦応元年 (1338)、尊氏が正式に征夷大将軍に任ぜられる。

後醍醐天皇は建武3年(1336)吉野山にて南朝の政権を開き、2つの政権により(南北朝時代)がはじまる。そして、60年間の小競り合いが続く。

 

「 南 北 朝 統 一 と( 室 町 幕 府 ) の 始 ま り 」

長く続いた南北朝の動乱も、尊氏の孫 3代将軍 足利義満(あしかがよしみつ)が将軍になる頃に内乱も治まり。義満は明徳明徳3年 (1392) 南朝側に和平を呼びかけ南北朝の合体を実現して、約60年間にわたる内乱に終止符を打った。戦乱によって荘園をうばわれ経済力を失った公家が地位を低下させていくと、朝廷が長い間保持していた権限を吸収し全国的な統一政権としての幕府が確立された。

 

神 辺 城 の 歴 史


 

神 辺 合 戦

    神辺町平野からやや東に位置する要害山城(天神山城)と呼ばれている。南北朝時代に宮入道(宮氏)の一族により築か 

  れているようである。現在に残る山城は戦国時代の新技術をつかっている。天文12年(1543)から6年間の長期戦と

      なった神辺合戦は当時大内氏に味方していた毛利氏が陣を取り高屋川を挟んで山名理興(尼子氏方)の神辺城を攻めま

      した。本丸跡は、周囲の土塁(敵の侵入を防ぐための土盛り)・切堀・3カ所の虎口で防御されている。この虎口は典

      形的な(枡形門)の形式ををしており、敵が攻め込むためには城門を二度曲がらないと城内に入ることが出来ない複雑

      な構造になっている。又、縦堀が本丸に沿って周囲を巡らせており、土塁ととともに強固に形成され、中世山城時

      代最も発展した形式を伝えている。

  天文11年(1542年)、杉原理興は大内氏に従い出雲の尼子氏攻めるが、この戦で大内氏が大敗を喫した際に多くの

  武将と共に尼子方へと寝返った。しかし、天文12年(1543年)に勢力を回復した大内氏は理興の拠る備後南部へと

  攻め込んだ。このときの6年間の合戦を(神辺合戦)と言う。神辺合戦では、圧倒的な戦力差もあり理興は支城を次

  々と落とされ、天文16年(1547年)には本拠である神辺城への総攻撃が行われるが、理興はこれに耐え切ったので

  ある。後に杉原盛重が理興の跡を継ぐことに成る。短期決戦を断念した大内陣営は神辺城の対岸に城(要害山城)を

  築き平賀隆宗を残して主力を撤兵させ、両者が競り合う状態となった。この状態は約1年間続いたが、平賀隆宗は陣

  中で病没し、主君を失った平賀勢が神辺城を力攻めしたため、落城、理興は尼子氏を頼って月山富田城に逃げ込んだ。

  その4年後、大内義隆は填陶晴賢により殺害され其の後宮島合戦により滅亡しその勢力基盤を毛利元就が継承すると

  毛利氏に恭順を許され再び神辺の安堵を認められ、毛利系の城として杉原盛重に変わり再び神辺城城主になる。

   

 

神 辺 城 想 像 復 元 図 ス ラ イ ド シ ョ ー 

 

 

 

( 下 記 へ ど う ぞ )