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2- そして神辺城から福山城へ移築

 

 

 

 福山藩士宮原直ゆきが元文末年(1740年頃)より30余年に亘り記した自筆稿本

 備陽六郡志によれば、福山城へ移築につき次のようにあげており、如何に多くの建物が福山城に移されている

 かを思わしめる。
  ・櫛形櫓   (8間4尺×4間)    2層 神辺城より来、樫番所の前に有り(伏見櫓南下)。
  ・神辺一番櫓 (7間×4間半)   3層 神辺城より来、右番所の後にし南角に有、神社方帳面入。
  ・神辺二番櫓 (5間×4間)    2層 神辺城より来、西の方に有。
  ・神辺三番櫓 (4間×6間)    2層 神辺城より来、西の方に有。
  ・神辺四番櫓 (4間×2間)    2層 神辺城より来、左何れも西の方に有。
  ・人質櫓   (6間×3間)    2層 神辺城より来、乾の方に有。
  ・荒布櫓   (5間×4間)    2層 神辺城より来、岬の方に有。
  ・鹿尾菜櫓  (4間×3間)    2層 神辺城より来、東坂御門の上に有。
  ・玉櫓    (3間2尺×5間5尺) 3層 天守閣の後、東の角に有。
  ・塩櫓    (5間半×3間半)  2層 神辺城より来、天守閣の後、西の角に有り
  ・鬼門櫓   (5間×4間)    3層 神辺城より来、東北の隅に有。
  ・勘定所   大手門の内,鉄門の向いに有(今の福山駅前)水野御代(三村右近・忠雅公(松平)

         御代 奥平吉平衛・当御代(阿部)内藤平居・神辺城大手門他(1615坪=地積?)

そして、福山城築城後19年以後 (2代勝俊・3代勝貞) 時代の福山城城下町ち風景

下記の水野藩時代の城下町絵図ですが。此の絵図の時代を推測出来る事柄が4つあります。その (1) 水道網が寛永18年(1641)に完成している。その (2) 木綿橋と胡橋の完成とその場所に惣門が有り 水道網が寛永18年(1641) に完成している。その(3) 築城時に勝成公の要請で追手門の東から南一帯に神島からの集団城下町が有りました。しかし、寛永17年(1640)大火により焼失し、翌年の寛永18年(1641)に下記の位地に移動している。その (4) 当時の2つの絵図を見比べると、寺町にあった妙政寺が築城時にあった弘宗寺(鬼門寺)場所はその年に移動し弘宗寺は吉津川脇(現在の桜馬場)に移動しています。これは何を意味するかと言うと「二代勝俊死」明歴元年(1655)に3代勝貞が移動したものと考える。これらの事柄をかんがみれば福山城築城後(後寛永18年) ~ 3代勝貞・4代勝種 時代の城下町に間違いないだろう。

 

福 山 城 想 像 再 原 図

 

上記の色付き配置図は神辺城から移築された物です。

 

  神辺城から移築されたとされる、これらの城郭(14の櫓)は主に西側に(神辺第一櫓・神辺第二櫓・神辺第三櫓・
  神辺第四櫓・人質櫓・荒布櫓・乾櫓)北側に(塩櫓・玉櫓・鬼門櫓)東側に(鹿尾菜櫓)南側に(櫛形櫓)と南側の堀の
  角に二階櫓・舟櫓、そして多くの武家屋敷が配置され廃藩置県の影響のもと、福山城の場合明治6年頃取り壊
  しが行われ、その後神辺城櫓の勇姿を見る事が出来ません。特に櫛形櫓は、慶応元年(1865年)11月、
  第二次長州征伐の準備に際して焼失しており、明治初年の福山城南側全景の中に見る事が出来ません。

 

  福山城が(武家諸法度-1614年)築城禁止発令後に何故福山城の築城が許されたか?。私は福山城築城に関して幕

  府が絡んでいる事に気きずき、時代背景を調べました。※ (関ヶ原の戦い - 1600年)徳川派が勝利

  ※ (1600年~1614年 - 徳川派・豊臣派の不安定時代) ※ (慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞職し朝

  廷に嫡男・秀忠の将軍を宣言し、将軍職はその後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。しかし、

  家康は改めて豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて実感する。 ※ (慶長19年(1614年)

  大坂冬の陣・大坂夏の陣によって大坂城は落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により

  自害、勝永自身も自害した。したがって、豊臣家は事実上滅亡した。※ (元和元年(1615年)、「家康は武家

  諸法度制定」( 城の増改築は幕府の許可を必要とする)・(城の新築禁止令など) ※(元和2年(1616年)家康は駿

  府城において薨去した。享年75。) ※ 二代将軍秀忠の命により(1616年~1619年まだ西の外様である毛利氏・

  広島の浅野氏・九州の加藤氏・島津氏の動きを見据え、もしもの事を考え、武家諸法度制定が有りながら特

  例として水野勝成を1619年に神辺城に入封させ当時として破格な巨城を幕府は福山築城の許可をしたのであ

  る。同年、広島城の福島正則は武家諸法度にふれて改易になっています。 

 

写 真 で 綴 る 福 山 城 の ス ラ イ ド 

 

福山城の全景
明治初期国産カメラ代一号機にて撮影された福山城全景写真。現在駅前交番あたりまで入り江が来てました。当時の川幅は35M~45Mありました。
伏見城と天守閣
此の写真は明治中期頃,南側から撮影されたものです.夢殿の下には武家屋敷が残り,江戸時代の面影が偲ばれる写真です。第一堀も見る事が出来ます。
汽車が見える福山城
明治中期国鉄の前進に山陽鉄道が開通し、尾道から笠岡まで往来していました。昔懐かしい長い煙突の蒸気機関車を見る事が出来る貴重な1枚いの写真です。
伏見城と商店
此の写真は明治末期頃の写真です。左側の商店の前進は神辺第1櫓(天守閣)が有り、廃藩置県まで神辺城の勇姿が見る事が出来ました。
福山城を囲む民家
大正6年に撮影された写真です。左側にそびえる2本の煙突は敷島紡績です。現在の駅前交番付近まで入り江が有り此の工場に必要な石炭舟が往来していました
福山城天守閣
此の天守閣の写真は大正初期から終戦前までの福山城天守閣です。元倭年5年(1969)水野勝成神辺入城、1622年に福山城を築城、水野・松平・阿部3代の城です。
廃虚した福山駅
1945年8月8日の夜福山空襲が有り、此の写真は翌日の朝の駅構内の光景です。☆犠牲者数・354名☆焼失家屋数・10,179戸☆重軽傷者数・864名☆被災地人工・47,326人
伏見城と復興
此の写真は終戦から、1年後の福山城付近の復興地域の光景です。伏見櫓が残った理由は、旋回型の爆撃でなく編隊爆撃機か南から北へと直進したため、爆撃から外れました。
伏見城の勇姿
此の写真は1963年(昭和38年)の写真です。3年後(1966年)昭和38年に現在の天守閣、その他の櫓が新たに復元され市民のシンボルとして存在しています。

 

水 野 勝 成 築 城 時 の 福 山 城 絵 図 ( 福 山 誠 之 館 同 窓 会 収 蔵 )

 

おもに、東側の櫓・南側の櫓と中央の屋敷は京都伏見城から移築し、西側と北側の主要櫓と東方2層の櫓と南方の櫛形櫓は神辺城から移築されたとされている。天守閣の建築資材は青森から舟で運ばれました。この福山城は日本最後の城郭建築でわずか3年の月日で築城されている。

 

 

 下 記 へ ど う ぞ