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9 - 水 野 勝 成 と 福 山 城

 

福山城築城時に何故西側に多くの櫓と武家屋敷を囲ったのだろうか。

福山城築城にあたり、廃城となった神辺城(14の櫓)と多くの屋敷はもとより、江戸幕府から賜ったの京都伏見城からの遺材も多く用いられた。そして、築城開始から3年近くの歳月を要し、図面の如、西国鎮衛を目的に西側に多くの櫓配置と武家屋敷を配置しています、そして元和8年(1622年)福山城は完成する。福山城は10万石の城としては破格の巨城で特に5重の天守閣や三重櫓7基配置し、20以上の櫓数と5つの城門は特筆である。築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与され、天下普請に準じる扱いを受けており、この図面から福山城は参勤交代時に山手西国道より福山城を見る事が出来、西国から護る城として幕府に期待されていたことが伺える。

 

(1) 築 城 時 の 福 山 城 絵 図 (1622年)水野勝成によって福山城が完成する。

(トップ写真は明治初期の写真)・(昭和初期の写真)と右端の櫓群の写真が見あたらず、同じ方向の絵図(浜本憲章作)を参照し(廃藩置県前の写真・昭和初期の写真)8割と2割の絵図により合成、そして明治初期の風情に福山城を完全復元しました。

 (築城時の福山城は姫路城より後に築城され、日本城郭建築最後の巨城です)

1622年築城時の福山城全系図と上記の復元された写真と見比べてください。

 

宮本武蔵と福山藩(中山志摩之助)との関わり。

水野勝成は豊臣時代に四国征伐・九州征伐の時に共に戦乱の中にて深いつながりが有ったと思われる。そして、関ヶ原の戦いの時に勝成・勝俊(17歳)・武蔵・志摩之助は共に参戦しています。其の恩賞にて刈谷城(三万石)⇒大和郡山城(六万石)⇒神辺城(福山城)十万石へと変遷しています。中山志摩之助は武蔵に三男(三木之助)を養子に出しています。その後姫路城主本多忠正の嗣子忠刻に仕官しています。姫路城主・本多忠政の嗣子・忠刻が、1626年病死した。武蔵の養子・三木之助は、忠刻の側近であった。彼は忠刻の初七日(死後7日目)に享年23歳で殉死した。三木之助が殉死したので、宮本家は彼の弟・九郎太夫を再度中川家より養子をとり、そして家督を相続し、名も三木之助を襲名した。そして、武蔵は福山城に客人としてきた時に(現在のニューキャッスルの位置に家老「中山将監」屋敷の庭園に宮本武蔵腰掛石が存在しています。(現在備後護国神社境内にあり) 又2代勝俊の菩提寺(妙政寺)境内に武蔵が寄進した塔路が存在しています。


 

 

黒田官兵衛・長政 親子と九州時代の水野勝成との関わり

 

関ヶ原の戦い時代の黒田官兵衛親子・宮本武蔵と水野勝成との関わり

 

(1)-A  明 治 初 期 ~ 明 治 中 期 頃 ま で の 福 山 城 関 連 写 真

( 上記の写真は(明治初期~中期)頃までの福山城関連の写真です )

 

(1)-B  大正初期の神島橋(板橋)と土橋(現在の本通りと吉津川の交差橋)の風情

左上記の写真は大正初期の神島橋(板橋)の写真・昭和10年施行の神島橋で現在の神島橋は4度目の橋です。(地図を参照)

右上記の写真は大正初期の写真で、現在の本通りと吉津川と交差にある土橋より東方を見た風景で、板橋が見える橋は現在の桜馬場町に通じる橋です。阿部5代(正精)の命で福山志科(菅茶山)によれば、この場所が17間(30M)の土橋なりし。と記録されている。したがって、廃藩置県(明治4年)後に埋め立てされ川幅が狭くなったように思われる。

 

(1)-C  鞆軽便鉄道の(第2堀)内福山駅舎と外堀橋との関係

 先日、福山市三ノ丸町の公園の片隅に上記に示した石碑を見つけ次のような内容が記されていました。上部には大きな彫り文字で(外堀橋)と彫られ、その下にはこの橋を造った発起者と、この橋を造るため寄付をした会社名・個人名の名前が記録されていました。そもそも、この橋の場所は開業時(大正2年)駅舎が福山城第2掘りの内側に有り掘に鉄橋が存在していました。当時の人々は近道をする為危険な鉄橋を渡り、掘りに落ち事故をまねき、見かねて発案者により鉄橋とは別に石橋を造りました。その功績者の名前を刻んだ碑が上部写真です。当時親しまれた鞆軽便鉄道は大正2年営業開始し昭和29年に(さよなら列車)を最後に幕を閉じました。

 

(D)  鞆 軽 便 鉄 道 と 鞆 の 浦

 

・鞆鉄道線の路線区間は福山駅 - 鞆駅間で1913年(大正2年)から1954年(昭和29年)まで運行。元々軽便鉄道として開 通したため、軌間は762mmでした。また、同線で使用されていた蒸気機関車の煙突がラッキョウの形に似ていたため、  「ラッキョ汽車」とも呼ばれていた。

・(文化7年(1810)鞆津図)の時代は阿部5代藩主正精で、江戸老中職でもあり当時の鞆の津を整備しています。 鞆の浦沼名 前神社を中心に町を整備しています。・安土桃山時代に織田信長に追われ、毛利輝元を頼りこの鞆の地に滞在しています。 足利義昭が鞆滞在(延、備後の在期間11年間)の滞在関連場所。(小松寺・伸明停 鞆城後・一乗寺城常国寺・当時松永湾 夕 蔵邸・深津湾 蔀山邸)などが上げられる。

・(福山城開祖水野家の紋章瓦)この紋章瓦は廃藩置県時(明治6年)城取り壊しの時に東側家老屋敷にあった長屋門を海路(筏)に て持ち帰り、移築した長屋門でその時付随されていた水野家の紋章瓦(おもだか)です。写真提供(保命酒岡本亀太郎本店)

 

(1)-E  両 備 軽 便 鉄 道 路 線 図 ( 大 正 3 年 ~ 昭 和 1 0 年 )

 

両備軽便鉄道の福山駅舎は福山駅北側の第2掘りを埋め立て(現在の駅裏ファミリーマート)付近に駅舎が出来、横尾駅まで胡駅・吉津駅を設け現在の(313号線)大垰(頂上にトンネル)を通り横尾-神辺-湯田村-道上-万能倉-駅家-近田-戸手-上戸手-新市-高木-鵜飼-府中の16駅をつくり大正3年営業を開始し昭和10年に廃線。そして現在の芦田川沿いに路線変更し現在の福塩線となる。当時この沿線沿いの人々の経済.文化に貢献しました。

 

(2) 刈谷城→放浪の旅時代→関川原の戦い→阪夏の陣→大和郡山→福山城 (水野勝成一生の記録)

 

(2)-a  水野勝成が過ごした戦国時代 ~ 江戸時代と幕末迄の所領変遷 (神辺城・福山城との関連)

 

(3) 水野勝成は大阪夏の陣の直後(1615年)7月大和郡山城へ六万石にて移城。

大阪夏の陣の戦いで徳川家康は勝成にお前はもう歳だから、けして前陣に出て戦う事あい成らんときつく止められたにも関わらず前陣にて戦い、家康からきつく立腹をこう。これを宥めたのは二代将軍秀忠であった。(1615年)~(1619年)水野勝成は大和郡山城を城改修中ば備後神辺城に入城。そして現在の常興寺山に(1619年~1622)かけて神辺城と伏見城(京都)から多くの櫓を移築しています。天守閣は当時建築技術の粋を集め材料は青森から取り寄せ五層の天守閣として福山で築城された。

 

(4) 神 辺 城 の 歴 史 変 遷

( 現 在 の 黄 葉 山 背 景 の 中 に 神 辺 城 を 再 現 し ま し た)

神 辺 城 の 時 の 城 主 の 変 遷

               (朝山氏)   1334年 ~ 1362年 城主   3代 (  28年間 )

             (山名氏)   1362年 ~ 1538年 城主 12代 (176年間 )

             (杉原氏)   1538年 ~ 1582年 城主   4代 (  44年間 )

             (毛利氏)   1582年 ~ 1600年 城主   2代 (  18年間 )

             (福島氏)   1600年 ~ 1619年 城主   1代 (  18年間 )

( 水 野 勝 成 )

(水野勝成公)は大和郡山城より1619年10万石にて神辺城に入城し、城地は瀬戸内海との往来や西国街道との距離が考慮され深津郡野上村の常興寺山(常興寺)現在の福山城途上かの形成も同時に進行し、1622年築城している。            

                    (神辺城は288年間の歴史を有する)

上記のように神辺城は山名氏時代の安定期に神辺城の基礎が完成し杉原氏によって武家屋敷と城下町を形成し福島氏によって再構築され水野勝成によって櫓と屋敷をばらし福山城移築にて神辺城櫓・屋敷が完成をみる。

 

(5) 水 野 勝 成 神 辺 城 入 城 コ ー ス と 街 道

 当時、水野勝成一行は大阪から鞆に上陸し海だった福山の深津高地付近にて上陸し上記のコースにて神辺城に入城している上地図は明治後期の地図で街道などを示す。福山城築城時代は木綿橋(現在の本道通り)が出発地点で1里(4.2K)ごとに塚が設定されていた。左上の大渡り位置は当時西国道と芦田川の交差で両岸に船頭を置き旅人を迎えていた。当時渡り橋を造らなかった理由は外部から一度に多くの入国を防ぐ防御上の関係だと言われている。

 

(6) 今に残る神辺城の遺構(明王院の書院と庫裡)は神辺城の屋敷を移築している。

水野勝成が入府の翌年(1620年)、夏の大雨の時五重塔の裏山が崩れ破損し勝成自身の命で改修しそのとき、当時解体していた神辺城の建物を移築し書院と庫裡が翌年の(1621年)に完成している。当時使用されていた瓦の中に神辺城に居城していた 尼子の家紋である一つ目目結紋の瓦があり、現在、明王院に保存されている。同じ瓦が神辺民族歴史資料館に有る。この他薮路街道付近にある実相寺山門(福山市北吉津町)も神辺から移築した物である。

 

(7) 水野家福山藩は築城から断絶までの76年間は干拓の歴史であった。(現在福山市の基礎を造る)

(福山城築城(1622年) 水野家断絶(1698年) 76年間の干拓史)

(水野家・阿部家・明治時代の干拓の歴史変遷)

(現在福山市の8割は水野家によって干拓され、最終干拓は明治24年に完成しています)

 

(8) 芦田川の歴史変遷  (現芦田川)は大正12年の芦田川改修平面図で川幅をみる事が出来る。

大正8年芦田川が大氾濫し府中から福山まで数百人の死者が出て国が(芦田川改修平面図)を発表する。その絵図が上記の左上の図です。この図は大正12年国の直轄施行である。総額は600万円でむこう10年間継続事業として決定された図面です。時代の流れにつれて工事も次第に延長されました。ちなみに戦前(昭和18年)学徒動員(誠之館・英進・県女)各学校によって埋められている。背景の地図は明治30年に作成された地図で川口あたりは鷹取川のデルタ地帯の様子がうかがえる。この地図で伺えるのは鷹取川が本流で芦田川は支流である。昭和6年の写真でそれを証明できます。明王院の前の芦田川の川幅は20m~25mと読み取られる。現地図芦田川の東側に新堤防をみる事が出来る。この位置が現在の川幅である。又、⇒▼印は五本松で旧福山競馬場交差点(現在五本松バス丁)です。

 

(9) 福山藩が巨大船団を建造し、(島原の乱)・(参勤交代)に使用されている

福山藩は築城後、地元の楠の大木を利用し田尻にて約120人乗りの巨大な船を50隻建造し、その名を(大展輪丸)と命名したその船団を上記の地図で示す現在の田尻高浜に21反帆(4m×5m)の巨大船団がこの池の中に収めていた。そして寛永15年(1638)島原の乱が起り、勝成・勝俊・勝貞 親子3代 藩士430名 雑兵合わせ藩兵として6000人参陣している。

この名残が上記の地図で示す、田尻高島幼稚園の校庭に石碑(御船入池跡)が有ります。(昭和40年代に埋め立て)その後、譜代大名の参勤交代が1642年にあり、福山藩はこの船団を利用して江戸まで航行していました。

(左上の干拓絵図の太線は(島原の乱)にいった時代を示す)

 

(10) 水 野 ( 勝 成・勝 俊 ) と 総 門 の 関 係

(福山領文語伝記)によれば築城時は天下橋筋が中心通りで、2代勝俊の時寛永18年(1641)木綿橋(現在の本通り)から吉津川迄

町割りも形成され吉津川に土橋を掛けそこに総門(大目付支配下)をおき西国街道から城下に入る表門だった。(小場家紋書)によれば新橋(木綿橋)と土橋(吉津川)は同時に築造し完成している。菅茶山(福山志科)によれば当時(十七間の土橋になりし)と表記しています。松平忠雄(1700年)の頃板橋になり欄干あり・・・と記し台石垣を含め約(30M)の橋が架かっていた事がわかります。左の絵図は当時の水道網が引かれた図で大きさは江戸神田上水道に続いて2番目の規模です。

 

 

(11) 水野勝俊の死後 7人の殉死者が出た事について・・・。

慶安4年(1651)の勝成の死後から4年後、勝俊は承応4年(1655)に江戸藩邸で死去(享年56歳)、妙政寺に葬られた。法名は信解院殿前四品作刕太守理円日證大居士。墓所は広島県福山市北吉津町の日蓮宗妙政寺。墓は巨大な五輪塔で、墓前には勝俊に従い殉死した7人の家臣(西山半左衛門、三宅半助、横山惣右衛門、田中十郎右衛門、上田七兵衛、馬場長右衛門、河上一郎右衛門)の墓が並んでいる。この時殉死の光景を見た嫡男勝貞は今後城主の死に際し、けして殉死はあい成らんと定めている。しかし、寛文2年(1662)勝貞は江戸藩邸にて不意な病にて38歳にて死去する。その100日目後江戸にて5人の殉死者をだす。この行動は藩内において、藩追放や減配など、きつい沙汰を下す。そして、賢忠寺にあった勝俊に後追いした殉死者7人の墓は妙政寺に移し武士の誉れと美化している。

 

(12) 大坂夏の陣において宮本武蔵は福山藩二代勝俊の護衛にて東軍で戦っています。

宮本武蔵と福山藩の係わり

武蔵32歳、大坂夏の陣、武蔵が水野氏陣中において参陣したことが判明する(小場古文書)。宗休様(勝成)御出語なる文書 島原の乱に武蔵が参陣(これは勝成隠居後における武蔵と勝成の言動を集録したものである。)
武蔵の養子三木之助は水野家の藩士中川志摩之助の三男である。(中川志摩之助は大坂夏の陣で水野藩側でともに戦った縁)
「武蔵腰掛石」は武蔵が勝成の従兄弟(水野家二番家老中山将監)の屋敷に居候していた時期に邸内にあった石に武蔵が腰掛けた石をさす。この時、武蔵は燈篭を寄進している(現在妙政寺の境内にある)
( 福 山 築 城 と 武 蔵 )
石垣の縄張、枡の構成等は、勝成が武蔵より秘伝伝授されたのでないか。武蔵の秘伝書「新免直心兵法」にある 当時の福山城とまったく同じである。
妙政寺2代墓前の燈篭が三蔵稲荷にあった経緯から武蔵と勝成の関係が古文書から判明した。

 

(13) 築城時の福山城天守閣の4櫓目は檜張りの屋根であった。(1622年)福山城築城)

福山城全系図 浜本憲章作 (福山誠之館同窓会所蔵)

上記右側の写真は昭和初期頃、北側から撮った写真で1層~4層の壁面は鉄板張りであった。当時日本の城郭建築の中で最新の建築で最高技術によって作られた福山城天守閣である。ちなみに使用された材木は青森から運ばれた言われている。

江戸中期頃(阿部2代藩主阿部正福時代)、天守欄干は風雨により痛み板囲みの手法で作られ板は松ヤニにより保護され、左上の写真のように戦前までこの形状にて有りました。しかし、築城時の正保絵図によれば4櫓目の櫓屋根は檜葺き屋根であった。又同時期に築城された津山城も同じである

 

(14)元 禄 1 1 年 ( 1 6 9 8 ) 水 野 家 断 絶 後 の 所 領 の 事 実

5代水野勝岑(2歳)は幕府に家督相続報告の為長旅が原因で江戸にて亡くなり断絶となる。水野家(勝俊・勝貞・勝種・勝岑)4代続けて江戸にて亡くなっています。初代水野勝成は神辺城に10万石にて入封し1622年福山城を築城し干拓によって石高を増やし5代(76年間)にて断絶する。その後岡山(池田藩)の検地(2年間)により5万石増える結果と成る。右図は増えた5万石は幕府が没収し阿部藩(10万石)・幕府天領(2万9千875石)・中津藩(2万15石)三分割の所領と成る。天領は笠岡・上下に代官所を設置し管理する。九州豊前国中津藩は三和の小畑に代官所を置き管理する事になる。中津藩(奥平)は10万石で現在の大分県に存在し、そのほか(福岡県・備後)と3分割で管理するためこれを3御領と言われている。上記の右図によると現在の神辺は3つの所領(阿部藩・幕府天領・中津藩)にて管理されている。

 

(15) 福山城の規模 (現代地図の中に合成)

上記の合成地図は水野家勝種時代の正確な地図と16両編成(25×16)の新幹線ホームから距離を割り出し規模を示した。築城時の福山城面積は南北・東西は(600m×600m)の巨城でした。この面積は広島マツダスタジアムが16球場ある面積です。福山城は5櫓の天守閣と3櫓(7)・2櫓(19)と城門(7)を備える巨城でした。幕府は西の外様に対して監視目的で、日本城郭建築の最後の城である。特に天守閣の北側は防御上鉄板を張り当時の建築の粋を集めた名城でした。

 

(16) こ ん な 所 に 水 野 家 関 連 の 家 紋 瓦 な ど が 有 り ま し た 。

宮司の話によると水野勝成公は福山入府前からこの地に神宮が有り、勝成公は城の築城・干拓と並列に色んな神社仏閣に関わっています。この八幡宮も水野勝成公によって造営しています。この神社は全国でも珍しい東の宮・西宮と同じ拝殿を造っています。一つは武士社会の拝殿 もう一つは町人を対称にした拝殿を造り身分の対等にと同じ2拝殿造りをし、民の幸を祈りました。

 

 聰 敏 神 社

『常山紀談』には「全ての士に、身分の貴い、賤しいはない。主君となり、従者となって、互いに頼み合ってこそ、世は立つ習いである。だから大事の時は身を捨てて忠義をなすのだ。汝らは我をば親と思われよ。我は汝らを子と思わん」という勝成の言葉が伝わっております。後7年後、築城400の節目年を迎えます。今日、福山市の基礎を築いた初代築城藩主水野勝成公の功績を讃え迎えたいものです。

 

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下 記 の リ ン ク ( ! 0 ) 山 陽 鉄 道 の 謎 ヘ ど う ぞ

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